昭和五十二年二月二十七日 朝の御理解


 御理解第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 教祖様が天地金乃神様からおかげを受けられたことを話にして残しておって下さる。いつまでも尽きぬおかげをと仰っておられます。その金光大神が教えられた事というのは、どいういうようなことかと。結局人間の生き方。いうならば人間の本当の生き方。いわゆる金光様の御信心をするならこれだけの事は出来ておらなければと言う事を、様々な角度から話をしておられます。いわゆる本当に生身を持った人間の幸せな生き方というのです。昨日私は、色々沢山お取次ぎをさせて頂いた中に何かそういうような私共人間の生き方といったものが、それぞれに私がお話したことを私昨日、これにまとめておりますから、ちょっと聞いて頂きます。金光様の信心するならばどげんならなければいけないか。例えば夫婦はね、半分どおしであるということ。ね。ですから、マイベストハーフの自覚がいると。私が分かりませんから、字引で引いてもらいました。マイベストハーフと言う事はどういうことかと。これは一心同体というような意味だそうです。私はこれを頂いた時にそうであることにやはりベストを尽くすことだろうと。始めに頂いておるところが夫婦が半分どおしだと。だから金光様の信心しておるならば夫婦生活というものはそういうものでなからなければ例えばどんなに素晴らしい見事な事を言うて聞かせても、あんただん、夫婦中悪か、そげなことで金光様の信心なりよかんのといわれたらそれでどんな素晴らしいことを人に伝えられても聞きゃしませんよね。
 ね。ですからね、結局ベストを尽くさなければ行けないということ。そういう自覚に立っただけではなくてね、夫婦は一心同体で半分、半分どうしだと。だから、そうであることの精進を怠ってはならない。と言うことなんです。次には嫁と姑のこと。母になる稽古がいる。娘になる精神が必要なようですね。はあもうあちらの嫁さんとお母さんは本当の親子のこだると、というて絶対本当の親子になれるはずはありませんよね。例え姑が鬼でも矢でも、主を継がせた親だもの。自分の最愛の主人を育て生んでくれた親だから大事にしなければならんと理屈わかっておっても、家の婆さんばっかりどげん思うたっちゃ大事にされないと。もう親孝行せんならんばってん家の婆さんばっかりはしようごとなかと。それが普通です。けれどもそこに嫁に来たが最後、また嫁にもろうたが最後、その嫁を娘と思わせて頂けれる一生懸命な稽古をしなければいけん。ね。
 または嫁はそれを本当な親と思えれる精進稽古をしなければいけん。この頃からある片がおかげの泉を読んで、お道の信心の根本は親孝行と。それをどの本を五、六冊買って読まれてどれも親孝行のことが書いてあった。自分はもう嫁に来てから何十年、何十年か、十何年か。その婆しゃんと仲が悪かった。婆さんの為にというて、その、心を使うたことがなかった。婆しゃんは病院に入院しておられるが見舞いにも行った事がなかった。けれども本当に人間が幸福になることのためには親子の仲そんなことであってはならない。信心の根本は幸せになる根本は親孝行だと聞かせてもろうておばあさんの為に始めてぼた餅を作ったと。そして始めておばあさんにぼた餅を持っていったら、おばあさんが涙を流してよろこばっしゃった。 
 ね。おばあさんが涙を流して喜んでおるのをみておったら自分自身も有り難くなって涙がこぼれた。不平不足を言う道は習わんでも分かるけれども、人に喜んでもらう道は、または自分が喜べれるという道は教えていただかなければ分からんことが分かったというてお礼にで、またここにもお礼に出てみえました。丁度お礼に出て見えられた時にその方のお話をしておる時にその方がみえました。それもなおさら感動して、これは熊谷さんのお導きですけれども、熊谷さんのところにまたお礼に行かれたというのです。だからそういう婆さんであっても嫁であってもですその、そういう、いうならば精進努力をしなければいけない。相手を見てこちらも涙を流すごと有り難かった。そこからです、私は本当の親子の仲が生まれてくると思います。これは、お母さんも姑親も一生懸命に母親になる本当の母親になる稽古、もし、この嫁が自分の本当の娘であったら、どういうだろうか、どう思うだろうかというように、ね、人の嫁御のことを悪口を言う婆さんがあるとするならばです、これは自分の嫁さんならば悪口を言わなければならないようなことがあってもむしろそれを隠してやりたいのが親心ではなかろうか。してみると私は嫁に対して嫁の悪口を人に対していいよったというような事は間違いだったと気付かせて頂いてそれを言わない稽古とか、母親にならせて頂く稽古がいる。そしてあちらの姑、親御と嫁さんは本当の生親子のごとあるといわれるような仲を付くって人に伝えた時にはあ、金光様の信心ちゃやっぱそうじゃろうと言うことになるわけです。嫁と姑は何時も悪口をいいあいでね例えば、心の中で遣り合うとったり、実際の上にやりあうような事でです、さあ金光様の信心ちゃ素晴らしいか、ありがたばのち、いくら合楽理念を振りまわしたところでです、それでは、人はついてこん。まず、姑が(?)。けんろうしゃにあってけんろうしゃ、働く人があって会社であり、会社あってのけんろうしゃであり、あいよかけよ、相互繁盛の尊い道だと。うちが使ってやっておる、おれが働いてやっておる。そして、なら(?)のような給料をあげろあげないといったような問題ではなくてですね、まあ、やあやあいわれたから給料を上げてやるといったような事ではなくてですね、勤労者があってですね、天地の親神様が氏子あっての神神あっての氏子という精神を悟らなければいかんです。勤労者あっての会社であり、会社あっての勤労者であり、あいよかけよは相互繁盛の尊い道なのだと。そこから開けてくるのだと。本当にはたらいてもらってありがたいという精神をなら、社長さんは従業員に対する思いがなからなければいけん。そういう思いが本当に会社の仲に出来てくると働かせて頂いておるというような事に気付かせて頂くような、おかげを頂かなければいけない。これは、なんとか、なんとかミシンですかね、金光様の社長が金光様の信者さんですけれども、そこには労組がないそうです。東京の末広というあの、衣服専門の、が、銀座の教会の信者さんですけれどもそこが従業員のがないという聞いております。本当に皆さんに、そのかわりに、もう朝の一番の買出しはそこの末広のご主人がなが靴を履いて自分が買いに出られるそうですがその買出しに出られるのは従業員の食べ物だけを食べなさる。会社の従業員のことはね、あの、他の、(?)そして出来るだけ、安かとからだけではなくて、出来るだけ、美味しい物が目につくごとというて買われるそうです。ね。その位大事にするならば給料あげなければ辞めるなんてんいわんと思うですね。これはあの、東京の(?)さんの話ですからほんな話です。なんとかミシンの話もしらごとの話ではない本当の話です。なんとか、浦賀ミシンかなんかそうです。ね。だからそういう店が出来てそういう店が出来てきたらどんなに素晴らしいことだろう。お互いがお礼のいいあえれる従業員というならばね、修行しておるもの側とがですうちの使用人、家に働いてもらっておる人達であり、働かせてもらっておるんだという頂きかた。
 ね。兄弟仲より、兄弟仲ようそれはね、どこに中心をおかなければならないかと親を中心に安心をさせあう努力がいる。仲良きことは神の喜びだと言う。兄弟仲良くしなければならない。一人の親方は大事にするけれども、弟は大事にしない。兄弟が話しあうて、兄弟仲良く親を中心にしてです、ね、親に安心させあう、どうしたならば親が安心するだろうか、どうしたら親が喜ぶだろうかそういう努力をするということ。はああっちは中々兄弟仲よかけんで絶対繁盛するです。兄弟仲がよいなら。ね。
 兄弟仲良く。それも仲良う芯を置くかというと親に中心をおかなければならんと。一人ばっかりでしよると、一人の息子は孝行しよるけれども、あんやつはあんまり孝行せんごとなると。もうその中ででも兄弟中が悪くなっておるです。ね。親を中心に安心させる、安心させる努力がいる。仲良きことは神も喜びであり、そで擦りあうも多少の縁。隣人、これは隣人愛と頂いた。ね。袖擦り遭うも多少の縁。隣人を愛せよ。隣の家の繁盛を願え。どうでしょうか、皆さん隣の人のことの繁盛を願よるでしょうか。もう不思議に隣とは中が悪かもんですもんね。どこでん。第一社会人からいつもあるです。隣が儲け出すと腹がたつ。隣の家には負けてはならんばいというてから子供達でもなんでもそういうけんかごしでそだっとる。隣の誰誰さんはあんたもあれどんまけたらいかんばい、つけこまれるばいという生き方では金光様の信心じゃない。私この御理解を頂いた時にですね本当にそうだと思いました。金光様の御信心は今日からは皆さんの隣の人を、両隣があるなら両隣の人をしっかり願うてごらんなさい。おかげを頂きますよ。これは世界の天下国家のことばっかり、世界真の平和のことばっかり願うておってから、となりの人のことを願わんごとあるならおかげになるはずは絶対にないですよ。どうであっても隣の人の事を願いなさいよ。その隣の人の事を願うことが神の機感にかなうのです。教祖はそういう風なことを教えておられるのです。今日からどうでんこうでん隣の人の事を一心に願わせて頂きなさい。
 それが隣人愛。隣りの人繁盛を願え。はあ蔵が建った、また家が美しくなった。というたら神様にお礼が言うごたる気持ちがまた生まれてくる。隣りが蔵を立てるとこちらは腹をたてる。それが信心のない人の姿ですけれども信心があってもそういうような状態ではなら人に伝えても金光様の信心は、私を連れて参ってくれんのと言うことになってこん。
 世界は一つ。地球の上に住む人間の幸福は神の悲願です。和賀心を精神に精神革命がなさねばならん。こう言う事がなされて、世界総氏子身の上安全世界真の平和達成といったような事。それも合楽では和賀心時代を創るとこういってある。和賀心が芯にならなければならない。あらゆる宗祖教祖が和賀心にはいっぺん帰依をしてそして銘々の宗教を引きたてていかなければ、芯になるのはなんと言うても和賀心です。和らぎ喜ぶ心。そういう祈りが出来、そういうありかたにならせて頂いて初めて、ね、人に伝えていく、人が本当にあなた方をみれば分かる、繁盛しよりなさる。中がよい。もう婆さんと嫁ごさんはまるきり本当の親子のごたる。兄弟が仲がようござりなさる。それでいて初めてです、お宅の会社は繁盛しよりなさると思うたらそういう例えば会社あっての従業員、従業員あっての会社というようなあいよかけよの行き方ができておるから、会社が(?)皆がよう出来ておると言うことになるのです。
 だからそういういうならば実行者に私共がならなければならない。ね。そしてその芯をなすものはどこかと言うと、栄四郎先生が、私昨日から、栄四郎ちゃんとか栄四郎君とか皆が言いますから、今日からちょいと、栄四郎さんといわな。栄四郎さんじゃいかん、栄四郎先生と言いなさい。ね。建郎先生がつかまえてから、正教さん正教さんというのはいかん。やっぱ言葉使いがね、本当にね、いくらなら栄四郎でもおぼっちゃんのごたるその、感じで呼ぶからいつまでもおぼっちゃん気分が抜けんでいかん。というてまあ、研修の時に話したことでした。福岡のご信者さんでね、もう大変難儀をしておってお参りをしてくる、(?)さんのような仕事をしておった。それが台湾かどっかにいかれて大変成功をして帰ってこられたと言う話を何回も聞いたことがありますがね、嫁さんが参ってくると非常に言葉使いが悪い。ね。もういうならば家の親父がうちの親父がというてお届けをするそうです。だからそげなことをあんたが言うけん、あんたげんばくちをうったり酒を飲んだり少しはその(?)なんかいらんことに使うて、家はいつも火の車。ね。言葉使いも例えばね、旦那様といや、旦那様にならなければおられなくなる。というて教えられたというのです。それから夕方、天秤を担いで帰ってきたわけです。そしたら別に玄関口があるわけではないのでしょうけれども、今帰ったぞというたらその玄関口にそれこそ、三つ指をつかれてあなたおかえりなさいませというた。そしたらなら、親父が腹をかいた。俺ば、俺をからかうのかというような事で(?)それからあくる日参ってきてから、先生あなたが上げな事言いなさったけん、かえって夫婦けんかになったというような笑い話のようなところから改めていかれて本当に立派な旦那様になられたと何回も(?)聞いたことがありましたよ。それを私は先生方にも修行生の方にも申しましたことでしたよ。特に例えば栄四郎なんかの場合なんか栄四郎君とか栄四郎ちゃんとかとみんなが呼びますから、やっぱ栄四郎先生にならなんごたるある。気がするというようなこう言う事なんか、家庭の総改まりがなからなければ出きんのです。
 ね。それでなら家庭がです、円満になってくる一つの手立てですから。まあ余談になりましたが、その栄四郎が昨日発表しておりましたが、昨日の朝のご祈念の時に僕は不覚にも眠ってしもうとった。それが、昨日だけじゃない、出てくる時は必ず眠りなさる。あんた、もう文男先生のごたるねち私が言いました。文男先生が修行中の時がそうでしたよ。朝のご祈念の時のちゃんと眠ってしまっておる。けれども、目が覚めた時には神様からいろいろとお知らせを頂いておる。だから悪くも言われん感じが致しましたよね。だからあんた、文男先生のようじゃないかというて、どげな風なお夢を頂いたかち、眠りながら親先生の御理解は聞こえたけれども、別なそのお夢を頂いた。僕と正教先生とお広前の障子をずっと(?)しよる。そしたら久富弘道先生がお説教をしよる。そのお説教がどういうお説教かというと友達が金光様の先生になりゃどうしてそげん早起きせんならんかと笑うけれども、ね、お道の信心すれば早起きが第一と思うて早起きをさせて頂いておったら、何時の間にかきついも眠いもなくなって早起きがこんなにありがたいものかと分からせて頂いてありがたいというお説教だった。そりゃもう親先生のお話を聞きよりゃ寝てからお夢を頂いたがよかのと私は言いました。(笑)いや本な事ですよ。その久富弘道というのが素晴らしいじゃんかと。久富ということは久しく富むと言うことはいうならば日勝り月勝り年勝り、代まさりという意味なんだ。お徳を受けると。久しく富み栄えるという意味なんだ。博通とは博道と書いてある。博愛の博です。そういう博愛の道というか広い道が開けるんだ。金光様のご信心を頂いて朝参りが出来んごたることじゃ本当のことには絶対になりません。それでは十日十日どうするのち、十日、十日教会に参ったつもりで朝の五時なら五時に起きて御祈念したらいいじゃない。ね。そして朝参り。金光様のご信心で朝早起きが出来なければおかげにならん。友達がね、金光様の先生そりゃどうして、早うせんならんかというて笑うけれども、朝起きを辛抱させて頂きよったら、眠いもきついもなくなりいつの間にこう言うふうに有り難くなってきたじゃろうかというて、お説教しよりなさったところをお夢で頂きよった。それも久富博道という先生がお話をしよる。ね。障子の破れを、(?)っておったということは、皆さんに先に聞いていただいた声です。このとおりのことが出来ておればそそくらんでよか。けれども、はあほんなこて、例えば隣人愛と言うことだけでもです、ほんに隣のことを祈るとか、天下国家のことは願いよるけれども、(?)いうならばそこをそそくらなければいけん。
 夫婦は一心同体の精進努力をしよらんならば、そこのところを伏せていかなければならない。そういう伏せをしながら障子を貼りながら、ね、いうならばね、何時の間にか朝参りが有り難うして有り難うしてという心の状態が開けてくる時にです、この61節の全てがいただけて全てが分かって、そういう生き方で人にも伝えていくならば、真の信心にその人もならないはずはない。私の家をみてください。私共夫婦をみて下さい。私ところの会社をみて下さい。ね。それをみただけでもついて来るでしょう。栄四郎が頂いておりますようにです、お道の信心はこの朝早くからと例えば人が笑うてもです、ね、朝早起きの稽古をさせて頂きよったら、何時の間にか有り難くなり何時の間にかしるしくないごとなっておる自分が有り難いということになる。そこに、久富博道のいうならば、開道です。道が開けるのです。ね。私は代勝りのおかげとかお徳を受けるということは、そういう信心がうまれてくるのだとおもいますね。
                                    どうぞ


入力者 松本正宏